29日の中日新聞の
特集「いじめと生きる」に寄せられた読者投稿記事と一緒に、伊吹文部科学省大臣のインタビュー記事がありました。
いじめはどこでもあること、
学校現場、教育委員会は、事なかれ主義で、文科省の官僚は、隠蔽を鵜呑みにしておかしいという感性がなかった
地方教育の手綱は文科省が握るべきだけど、人事権はない
最後に、「かわいそうな子達を犠牲にすることだけはしたくない。いろいろと失敗したことを表に出して、何か言われたら僕が責任をとる」と締めくくられていました。
いじめられている子は、かわいそうな子?
2003年7月に、私たちが県教育委員長と県知事宛に
、「いじめ対策の改善」を求めた要望書を提出したときには、対応した県教育委員会義務教育課の課長補佐が「不幸にもいじめに遭った子どものために、問題を受け止める」と言いました。私たちも、「不幸な親」と思われたのでしょうね。
要望書を提出にいったメンバー全員が、この言葉を見逃さなかった。
このとき、「いじめはどこでもあること」という認識が欠けていることを、強く訴えました。
「いじめられているかわいそうな子」という言葉は、いじめられている子を特別視しているように感じます。いじめられている子は弱い子だから、いじめられたら悩んでくよくよしている・・・・っていうような偏見的な見方を感じます。
適切な表現が見つからないけど、かわいそうとか不幸ということとは違う。
適切な対応が行われないことで、子ども達が更に権利を奪われていくことは確かだけど。
政府の教育再生会議について教育情報会社が高校、大学を対象に実施したアンケートで、回答した高校の77%が「期待しない」とし、「現場とのギャップが大きい」など冷ややかな意見が多く寄せられたことが、わかりました。
共同通信
大人の視点で見るから、大人の意識は変わっていかない。
大人がわかっていないと指摘する人でも、子どものことをわかるのは難しいでしょう。
ちゃんと、子ども達の話を聞くことから始めないと、どんどん子ども達の現状と思いと、かけ離れていくのではないかと不安が増すばかり。