昨日、東京高裁での判決を聴いて、一瞬耳を疑いました。須藤さんの控訴棄却という言い渡しと、地裁判決より、大幅に減額された賠償金額。
1時間後、判決文を読んだ須藤さんと弁護団の記者会見に同席して、
詳細を知りました。
新聞記事には触れていない部分では、殺されてしまった正和さんにも、5割の過失がつきました。
理由は、「命を奪われるという危険性、緊迫感が認められない」、犯人に連れ廻されて暴行を受けていた正和さんが、助けを求める素振りを見せなかったということでした。
警察の過失部分、3割の助けられたという可能性の根拠が全くわかりませんが、この判決を私なりに解釈すると一目で暴行を受けているなどの被害の事実がわからなければ、被害者や家族が深刻な状況をいくら伝えて助けを求めても、警察は助けてくれないということになります。
この判決を聴いて、いじめの事実認定、いじめといじめ自殺の因果関係の有無に、似ていると思いました。
同日の午前中は、同じ栃木県の鹿沼市で1999年11月にいじめ自殺で亡くなった臼井丈人くんの判決言い渡しもありました。こちらは、いじめの事実、自殺との因果関係を認められたけれど、自殺の予知予見は認められませんでした。学校、教師の対応についての不適切な対応の責任を認めたものの、その結果が自殺に結びついたとは認められませんでした。一方で、一連のいじめ報道、教育再生会議の流れを汲んででしょうか、「傍観者の生徒達も加害者」と裁判所は言っています。いじめの根本的な問題がないがしろにしたまま、大人の責任を果たさずに子ども達の責任が追及されたことに驚いています。
須藤さんの判決を聴きにきていた傍聴者の中には、遺族となって警察を相手に民事裁判で闘った遺族の方がいました。救いを求めている被害者は、100%信じて警察に頼ります。30%助けてほしいと言って頼る人はいないでしょう。「命を奪われるかもしれないという思いで、警察に相談しても助けてもらえない。では、どこへ助けを求めていけば良いのか・・・」と判決を聴いて、ますます嘆く被害者と遺族の方達。いまの学校も同じだと、私は思いました。
須藤さんが言っていました。
「納得できる説明と謝罪があれば、裁判は起こさなかった。2度々同じ事を繰り返さないために、裁判で認めてほしい」
命を大切に・・・という言葉が溢れている社会で、このような判決が下されることによって、これからも命が奪われていく事件がなくならないという悲観的な思いが、傍聴をしていた人たちの心を重くしました。