学校の事件後直後の対応①

1月26日の事件は、学校にインフルエンザが流行してきたため、一斉下校が取られた日に起きました。事件が最初に起きた場所は、校門から50mしか離れていませんでした。

そこから、主犯のYの自宅付近まで、距離にして223m、時間にして15分間、太郎は殴る蹴るの暴力を振るわれました。自宅から、学校までの距離は1km弱。学校へ戻るより、自宅の手前にある会社に、逃げるように帰ってきました。Yに「ぼこぼこにされた」こと、あと4人が一緒にいたことを私は聞いて名前をメモして、すぐに担任に電話をしました。「太郎がYに殴られて帰って来た」と告げると驚いた様子で、すぐに学年主任が電話を替わりました。太郎に聞いた少年5人の名前を伝えました。私は、まだこのとき、太郎の怪我を重大に受け止めていませんでした。

すぐあとに、養護教諭から電話がかかってきて、「どこの病院にかかりますか?」と聞かれたので、「近所の医院ではなく大きな病院にかからせたい」と答えると「それがいいかもしれないが、こちらでも病院を探してみます」と言って電話が切れました。
太郎の所へ戻ると、太郎は突然立ち上がり「気持ち悪い」と言って、トイレに行ったところで、私はやっと大変なことが起きたのだという実感が、じわじわと襲ってきました。太郎はトイレからやっとの思いで戻ってくるとで、ソファーに倒れ込むように座り、腹部を手で押さえ「お腹がすごく痛い」と「みぞおちを膝蹴りされた時は、息ができなかった」と言いました。
ソファーに寝かせて制服を脱がせようとすると、「体中痛くて横になれない」と泣きながら言いました。私は太郎の体を支え、ゆっくりと横にして、ズボンのベルトを緩めズボンを脱がせましたが、体を動かすことで腹痛と体の痛みを訴えるため、何度も手を止めました。お腹を押さえ体を丸める事もできない状態で、涙を流している太郎を見て、私は「大変な事が太郎に起きたんだ」とはっきりと理解できたのでした。咳込みは酷くなる一方で、そのために腹痛は増すので太郎は唸っていました。

私が救急車を手配することを考えていた時に、再度護教諭から電話があり、「近所では病院が見つからない」と言いました。私は「知り合いの外科医のいる病院に救急車で行くことに決めました。」と告げると、「そうして下さい」と言って電話が切れました。私はすぐに救急車を要請しました。
救急車要請直後に、担任と学年主任が会社に来ました。私は、電話を切ったあとに吐いたことや全身を痛がっていることを簡単に伝えました。教師らは、太郎を見守るという感じだけでした。

救急車が到着して、救急隊員は担架を持ち込んで応接室に入り、太郎に症状を聞くと「腹部が異常に固いね。咳はお腹の影響が横隔膜を刺激して出ているんだよ」と太郎に説明していました。救急車に私も乗り込み、聖隷浜松病院に搬送を希望しました。

救急車が走り出すとすぐに救急隊員が、「内臓破裂している可能性があります。お母さん、覚悟してください」と言われました。予測はしていたもののはっきりと言われて、やはりショックでしたが、私は、最悪の場合を考えながらも、助かることだけを一生懸命考えていました。太郎には、「大丈夫だから。直してもらおう」と何度も話して、励まし続けました。病院へ到着する直前に、救急隊員が「これは、傷害事件です。私達からは警察に届けを出しませんから、被害届を出すか出さないかはそちらで判断してください。」と言われて、私は「少年事件だからなのかな?」と思いました。

太郎は救急車から救急室へ運ばれ、私は廊下で待つように言われました。しばらくして、養護教諭が病院に来て私に声をかけてきましたので、それまでの経過を話しました。
検査が終わり、1時間くらいして、太郎は救急室から注射室に移されて、救急科のから「CTとレントゲン検査上は骨折や内臓の損傷はありません。血液検査結果も異常なし。頭部については、24時間以内に症状が現れることもあるから注意してください」と説明を受け、私は取りあえずひと安心しました。太郎も苦痛の表情が取れて「お腹の激しい痛みは取れた」と言っていました。

18時頃、教頭が病院に到着し、太郎のベットに行くといきなり太郎に事件ついて質問を浴びせるので驚きました。太郎は教頭の質問に答えるのではなく、「Aが写真を撮った」と話しました。教頭は「本当なの?」と聞いたので太郎は「写真、写真という声がして、フラッシュが光った。」と話しました。私もこの時に、初めて写真を撮られた事を聞いたので、「そんなことひどいことをしたのか」と驚きました。
太郎が教頭の質問に答えたくないそぶりを見せているのに、教頭は質問を続けました。

私には「警察に被害届を出すのか」と、教頭が確認してきたので、被害届を出すことを伝えると「本当に出すのですか?」と何度も確認されました。学校側がいかに、できれば事件を穏便に解決できないものかと考えている様子が、はっきりと感じ取れました。

19時頃、私は教頭から廊下へ呼び出されて、市教委より2名職員が来たと紹介されました。また、Y親子が病院に来ているので「太郎君に謝罪させてほしい」と言われました。夫が仕事の都合で病院に着いていないので、来るまで待ってほしいと伝えました。
それから市教委の職員2名は注射室に入り、そのうちのひとりのは私を押しのけるように太郎に近づくといきなり「もう、大丈夫だね!」と声をかけたので、私と太郎は驚きました。「太大丈夫じゃないでしょう」と私が言い返しました。そのあと、職員はひとことも話すことはありませんでした。
市教委からの職員の派遣は、私達には形式的なものにしか取ることができませんでした。

19時30分頃、夫が病院に到着しました。教頭と市教委職員からは、Y親子の面会を迫られましたが、太郎は「会いたくない」と言って怯えていたことと、両親としても冷静を保てそうもなかったので、当日の直接の謝罪や対面は、教頭と養護教諭、市教委職員に丁重にお断りしました。Y親子や教師達は、一度でも謝れば気が済むかもしれませんが、太郎が「会いたくない」と思う気持ち当然であることが、理解されていないことが悲しく腹立たく思いました。

19時50分頃に太郎の点滴が終わったので、帰宅することになりました。夫が正面玄関から入って来
たところに、Y親子らしき人物がいたということで、「待ち伏せされているかもしれない」と機転を効かせ、裏口から帰ることにしました。太郎は「だれにも会いたくない」と言って、お腹を抱えながら両足を引きずって少し距離のある裏口から帰りました。

私たちは、民事裁判を起こして、当時の学校の対応へ不信感を持ったことを訴えました。裁判を起こして初めて見ることができた記録や報告書がたくさんありました。、
しかし、学校と市教委からは、次のような反論があったり、記録として残されていました。
・母親は、「警察に被害届けをだすために、病院連れて行く」と言った。
・救急車は、養護教諭が要請するように指示した。
・学校からは、教頭と養護教諭、市教委からは職員を2名を病院に向かわせて、事実の把握に努めた。
・教頭は、警察への被害届けを提出してくださいと言った。太郎の怪我を気遣い、「無理して話さなくていいから」と言った。
・市教委の職員は、怪我が大事に至らなくて「良かった」という気持ちから発言した
などど、私たちが見聞きしたことや感じたことをすべて否定されていきました。
私たちが学校の対応を最初から疑うこころを持ったことを責め、当日の謝罪を受け入れなかったこと、裏口から帰ったことは、Yの謝罪を受け入れなかった非道者のように言われています。

太郎の怪我を心配する気持ちや被害者である太郎の立場になって、太郎の気持ちが優先されていくことを一番望んでいました。数時間の間に起きたできごとから、私たちはこれからどうなるのかと不安は大きくなるばかりでした。


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